2011年03月03日

神様の御名とは?(要約)

 知っているようではっきりしないのが、神様の御名です。旧約では「エホバ」「ヤハヴェ」「主」「アドナイ」『わたしはある。』などと表記され、新約ではイエス・キリスト・父・子・聖霊として顕れました。それについて皆様の理解が良く整理されればと思い、この文を書かせて頂きました。まずは要約を読んで下さり、さらに興味がありましたら本文をお読み下さい。


<導入> イエス様は父の名を明らかにした?
ヨハネの福音書17:5-6
 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。
ヨハネの福音書17:25-26
正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。


 イエス様はこの箇所で「父よ」と呼びかけ、そして「あなたの御名を明らかにしました。」「あなたの御名を知らせました。」と語られました。つまり父の名を明らかにしたと言われたのです。しかしイエス様は一度も、「父の名は何々である」と語っていません。これはどういうことなのでしょうか?

 皆さんは父の名を御存知でしょうか?旧約聖書を見ると、「ヘブル語の4文字」が神の名として書いてあります。発音の仕方が分からないので「エホバ」「ヤハヴェ」「主」等と表記されます。他にも「アドナイ」「主」『わたしはある。』(出エジプト3:14)等々を思い浮かべると思いますが、これらが真の父なる神の御名でしょうか?だとするとイエス様がその名を知らせたと言っているのに一度も出て来ないのは何故でしょうか?そして「明らかにした」といことは、それまで分からなかったり知らされていないからこそ明らかにするのではないでしょうか?既に旧約聖書で明らかにされている名を更に明らかにすると言うのはのは少し変ですね。これらの問いに一つの仮説を立てたいと思います。<父子の名>

ヨハネの福音書5:43
わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

ヨハネの福音書10:25
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。

 イエス様は父の名によって来、父の名によってわざを行っていると語っています。そして決定的なのが次の箇所です。

ヨハネの福音書17:11-12
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。〜

 ここで一番重要なのはこの所です。「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名・・・」と書かれています。どうかこの節全体の内容をじっくり読み考えてみて下さい。どういう意味でしょうか?わたしとはイエス様です。そしてその名は父が下さった父の名だと言うのです!!KJVでは”thine own name”(訳 あなたの自身の名前)とあります。子が賜った名前はイエスです。つまり父の名はイエスでありその名を父が子に与えたと読めるのではないでしょうか!「父なる神の名はイエス!!」これこそまさに、イエス様が明らかにした父の名だと言うのです。
 
 しかしこの一カ所だけとってそう解釈するのには違和感を覚えるかも知れません。聖書の他の箇所も見てみましょう。


<バプテスマ-父子聖霊の名>

マタイの福音書28:19 
(新改訳)それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け

 この箇所を取って現代の教会は「父子聖霊の名によって、、、」と宣言しながらバプテスマ(洗礼)を授けます。しかしこの箇所は父子聖霊と言って授けなさいと言っているのではなく、その名によって授けなさいと言うのです。父というのは名ではなく、位格です。子も聖霊も同様です。名ではありません。
 例えば未成年者が何かの契約書を書く時、お父さんの名前を記入する欄があったらそこに「父」と書くでしょうか?又、誰かにお子さんの名前は何と言うのですか?と聞かれたら「子です」と答えるでしょうか?しっかりとした実名を使うでしょう。 神様にも名前があるのです。イエス様はヨハネの福音書17章6節と26節で「父の名を明らかにしました。知らせました。」と語っておられます。その名でバプテスマを授けなさいと言うのです。ではその命令を受けた使徒達はどうしたでしょうか?使徒行伝を見てみしょう。

使徒の働き2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒の働き8:16
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
使徒の働き10:47-48 
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。
使徒の働き19:5
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

 どうでしょうか?はっきり書いてある所だけでも4カ所もイエスの名でバプテスマを受けた。と書いてあります。子の名がイエスだと言うことはご承知の通りですが、マタイ最後のの至上命令を受けた弟子達は父の名も聖霊の名も忘れてしまって子の名だけを使ったのでしょうか?
 そうではなく父の名がイエスだということを弟子達はイエスの言葉と聖霊の感動により知っていたからこそ、ただイエスの名でバプテスマを授けたのではないでしょうか。もし父の名がエホバの証人の方々が主張するように「エホバ」であったり「ヤハヴェ」「主」「ヘブル語の4文字」「アドナイ」「わたしはある。」etc であるなら、例えば「エホバとイエスと聖霊によりて、、、、」と言ってバプテスマ(洗礼)を授けたのではないでしょうか。しかし聖書のどの箇所にもそのような事例はなく、ただイエスの名によってバプテスマ(洗礼)を授けています。
 さらにもう少し付け加えるなら「父子聖霊の名によって」と記してある「名」とは原語で単数形です。つまり三つの名ではなく一つの名なのです。そしてその名は使徒行伝やヨハネの福音書はイエスだと語っています。

 このように御名について検証をしてきましたが、読んでいる人の中には「なぜそんな解釈に奔走するのか?」「そんなことよりも神様に対する愛とか、心の方が大切だと思う」と言う方もいるかもしれません。しかしこの御名というのはとても大切なのです。
 イエス様が弟子達に教えた「主の祈り」の中で一番最初に出てくる一番大切な祈りが『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように』です。それなのに私達が父の名を知らなければ、どのようにして御名をあがめることができるのでしょうか。

 以上はなるべく短くまとめた要約です。さらに興味を持たれた方は本文へお進み下さい。
posted by じゅん at 06:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神様の御名とは?(本ブログの中心テーマ) 

はじめに 
 私が韓国へ留学中、あるメッセージで聞き慣れないことを聞きました。それは「神様の御名」についてです。そこで聞いたことを思い出しながら聖書全体を調べ直し、自分なりに再考しました。そしてこれがとても大切で重要な事だという想いが押さえきれず、この度、出来るだけ多くのクリスチャンに分かち合いたく書かせて頂きました。なるべく分かりやすく誤解がなきよう聖書(新改訳)を中心に書いてみましたが、文章力や聖書に対する知識が不足なのはどうしようもありません。どうか諸先生方がこの文を慎重に最後まで読んで頂き、訂正、批判、反証、補足等をして頂ければと思います。そして同意される面が少しでもありましたら、さらに多くの聖徒の方々に分かち合って頂けたら幸いです。

 最近「天国の人」ブラザー・ユン著 という本を読みました。中国でのリバイバルを物語る驚くべき素晴らしい本でした。その中で聖書理解の不一致のために多くの分裂が生じたと記してありました。P240を見ると 〜イエスの名で(父子聖霊のかわりに)洗礼を受けなければ救われない〜 等の様々な教えなどの為に家の教会が分裂してしまったとありました。
 又、2005年〜2006年のリバイバル新聞には『「ペンテコステ神学」百年の考察』というコラム欄に、「ある教授が使徒の働きにおいて、弟子達がイエスの名でバプテスマを授けていたことを発見したことにより、様態論的神学を持つに至り、アメリカでペンテコステ系の教団が分裂してしまうという経過があった」というような内容が記されていました。

 なぜこのような混乱が起こってしまうのでしょうか。それは私たちが神様の御名に対して正確な理解をもっていないからだと思われます。知っているようではっきりしないのが、神様の御名です。旧約では「エホバ」「ヤハヴェ」「主」「アドナイ」『わたしはある。』などと表記され、新約ではイエス・キリスト・父・子・聖霊として顕れました。神様の御名について皆様の理解が整理される助けになればと思い、この文を書かせて頂きました。

<導入>父の御名を明らかにした??
ヨハネの福音書17:5-6
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。〜

ヨハネの福音書17:25-26
正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

 イエス様はこの箇所で「父よ」と呼びかけ、そして「あなたの御名を明らかにしました。」「あなたの御名を知らせました。」と語られました。つまり父の名を明らかにしたと言われたのです。しかしイエス様は一度も、「父の名は何々である」と語っていません。これはどういうことなのでしょうか?
 皆さんは父の名を御存知でしょうか?旧約聖書を見ると、「ヘブル語の4文字」が神の名として書いてあります。発音の仕方が分からないので「エホバ」「ヤハヴェ」「主」等と表記されます。他にも「アドナイ」「主」『わたしはある。』(出エジプト3:14)等々を思い浮かべると思いますが、これらが本当に父なる神様の御名でしょうか?だとするとイエス様がその名を知らせたと言っているのに一度も出て来ないのは何故でしょうか?「明らかにした」といことは、それまで分からなかったり知らされていないからこそ明らかにするのです。既に旧約聖書で明らかにされている名を更に明らかにすると言うのはのは少し変ですね。これらの問いに一つの仮説を立てたいと思います。

<父子の名>
ヨハネの福音書5:43
わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

ヨハネの福音書10:25
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。

 イエス様は父の名によって来、父の名によってわざを行っていると語っています。そして決定的なのが次の箇所です。

ヨハネの福音書17:11-12
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。

 ここで一番重要なのはこの所です。「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名・・・」と出て来ます。」どうかこの節全体の内容をじっくり読み考えてみて下さい。どういう意味でしょうか?わたしとはイエス様です。そしてその名は父が下さった父の名だと言うのです!!KJVでは”thine own name”(訳 あなたの自己の名前)とあります。子が賜った名前はイエスです。つまり父の名はイエスでありその名を父が子に与えたと読めるのではないでしょうか!「父なる神の名はイエス!!」これこそまさに、イエス様が明らかにした父の名だと言うのです。
 
参考に他のヨハネの福音書の箇所も見てみましょう。

ヨハネの福音書14:13
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
ヨハネの福音書15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネの福音書16:23
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
ヨハネの福音書 16 26
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。

ここでは、イエス様は子の名によって祈る時、父が栄光を受けると語っておられます。また、わたしの名(イエスの名)によって父に直接求めよと語っています。この箇所は勿論、「父が子の名を大切にされているからイエスの何よって祈る時、父が聞いて下さるのだ。」とも言えるでしょうが、それ以上に前述の結論をふまえるならば、「イエス名は父の名であるので、その名で祈るとき父に直接願うことになる。」と言えるのではと思います。

これまでの幾つかのヨハネの福音書により(特に17章)父の名はイエスだと仮定することが出来ると思いますが、他の聖書の箇所がそれを支持するかどうか見てみたいと思います。

<バプテスマ-父子聖霊の名>
マタイの福音書28:19 
(新改訳)それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

 この箇所を取って現代の教会は「父子聖霊の名によって、、、」と宣言しながらバプテスマ(洗礼)を授けます。しかしこの箇所は父子聖霊と言って授けなさいと言っているのではなく、その名によって授けなさいと言うのです。父というのは名ではなく、位格です。子も聖霊も同様です。名ではありません。
 例えば未成年者が何かの契約書を書く時、お父さんの名前を記入する欄があったらそこに「父」と書くでしょうか?又誰かにお子さんの名前は何と言うのですか?と聞かれたら「子です」と答えるでしょうか?しっかりとした実名を使うでしょう。
 神様にも名前があるのです。イエス様はヨハネの福音書17章6節と26節で「父の名を明らかにしました。知らせました。」と語っておられます。その名でバプテスマを授けなさいと言うのです。ではその命令を受けた使徒達はどうしたでしょうか?使徒行伝を見てみましょう。

使徒の働き2:38
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒の働き8:16
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
使徒の働き10:47-48 
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。
使徒の働き19:5
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
使徒の働き22:16(参考)
さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』

 どうでしょうか?はっきり書いてある所だけでも4カ所もイエスの名でバプテスマを受けた。と書いてあります。子の名がイエスだと言うことはご承知の通りですが、マタイ伝最後の至上命令を受けた弟子達は父の名も聖霊の名も忘れてしまって子の名だけを使ったのでしょうか?そうではなく父の名がイエスだということを弟子達はイエスの言葉と聖霊の感動により知っていたからこそ、ただイエスの名でバプテスマを授けたのではないでしょうか。
 もし父の名がエホバの証人の方々が主張するように「エホバ」であったり「ヤハヴェ」「主」「アドナイ」「わたしはある。」etc であるなら、例えば「エホバとイエスと聖霊によりて、、、、」と言ってバプテスマ(洗礼)を授けたのではないでしょうか。しかし聖書のどの箇所にもそのような事例はなく、ただイエスの名によってバプテスマ(洗礼)を授けています。ですから私達も聖書どうりにイエスの名によってバプテスマ(洗礼)を授けるべきではないでしょうか。
 さらにもう少し付け加えるなら「父子聖霊の名によって」と記してある「名」とは原語で単数形です。つまり三つの名ではなく一つの名なのです。そしてその名は使徒行伝やヨハネの福音書はイエスだと語っています。現代教会では父と子と聖霊の名と唱えながら三度水をかけたりします。そこには父子聖霊を三つの名と考える、或いは無意識に、或いは伝統として行ってきた誤解があるのだと思われます。
 
<すべての名にまさる名>
ピリピ人への手紙2:9
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

エペソ人への手紙1:20-21
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
 この箇所では「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。すべての名にまさる名です。もし「エホバ」「ヤハヴェ」「アドナイ」「わたしはある。」「主」などが父なる神の真の名であるなら、この箇所と矛盾してしまうのではないでしょうか。

<相続された名>
ヘブル人への手紙1:4
御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

 相続というのは受け継ぐと言う意味です。親の物を受け継ぐと言うことです。父なる神が考え出して子に名前を付けたのであったら、相続とは言えません。ただ与えたという事になります。当時のイスラエルでは父の名をそのまま子に受け継がせることがあったようです。それでバプテスマのヨハネも父の名をそのまま受け継いで「ザカリヤ」と名を付けられそうになりました。とにかく子が御名を相続されたと言うことは父の名を相続した事になり、今まで読んできた他の箇所に合致致します。

<主の御名によって来られる方>
マタイの福音書23:39
あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

この「主の御名によって来られる方」という表現は他の箇所にも多く出て来ますが、「よって」と言うからには、ここで言う「主」と「来られる方」というのは別々の方を指していることになります。つまり「来られる方」とはイエス様のことであり、そのイエス様は主の名によって来たと言うのです。もうおわかりだと思いますが、主=父=「イエス」です。言い直すと「主(父)の御名(イエス)によって来られる方(=イエス様)」と言うことになります。これはヨハネの福音書5:43「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」という箇所と合致いたします。

<額にしるされた名> 
ヨハネの黙示録14:1
また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
ヨハネの黙示録22:4
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

ここでは、聖徒達の額に神の名がしるされると書いてあります。子羊とはイエス様を表現していますから、子羊の名とは「イエス」です。さらに子羊の父の名つまり父なる神の名がしるされるとあります。これは父の名と子の名が二つしるされるという意味なのでしょうか?今までの内容をふまえると「イエス」という一つの名がしるされるのだと推測できます。ですから22:4の神の名というのも英語の聖書では単数形になっていました。

<聖霊の名>
マタイの福音書28:19 
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

ヨハネの福音書14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ペテロの手紙第一4:14
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

 「聖霊」というのも「父」と同様、位格の一つであり名前ではありません。では聖霊様の御名は何でしょうか?聖霊はただ聖霊であり他に名などないのでしょうか?感の鋭い方は先ほどの<バプテスマ-父子聖霊の名>の箇所でお気づきだと思いますが、聖霊様の御名も「イエス」です。それは「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と言われた使徒達がただ「イエス」の名によってバプテスマを授けたことにより明らかです。
 さらにイエス様はヨハネの福音書5:43で「わたしはわたしの父の名によって来ました・・・」と言われましたが、聖霊様についてはヨハネの福音書14:26で「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊・・・」と証言されました。私の名つまりイエスの名によって遣わされたのが聖霊様です。
 さらに付け加えるならば、先ほども述べましたが、「父子聖霊の名によって」と記してある「名」とは原語で単数形です。よって「父」と「子」の名はイエスであるのに、聖霊様だけ何か他の名を持っているわけでもなく、まして名無しの権兵衛でもないのです。
 つまり神様は三位なる方ですが、唯一なるお方です。唯一ならば御名も一つだというのです。三位一体なる唯一の神の名が「イエス」です!!だからこそ「すべての名にまさる名」であり、栄光の御名であり、いやす名であり、悪霊を追い出す権威ある名であり、最高の御名なのです。

<御名の重要性>
マタイの福音書6:9
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
使徒の働き15:26
このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。
使徒の働き21:13
するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。
コロサイ人への手紙3:17
あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい

 このように御名について様々な検証をしてきましたが、読んでいる人の中には「なぜそんな解釈に奔走するのか?」「そんなことよりも神様に対する愛とか、心の方が大切だと思う」と言う方もいるかもしれません。しかしこの御名というのはとても大切なのです。
 イエス様が弟子達に教えた「主の祈り」の中で一番最初に出てくる一番大切な祈りが『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように』です。それなのに私達が父の名を知らなければ、どのようにして御名をあがめることができるのでしょうか。又、父はその名により栄光を受けられる方でありますから、神の子達はまず父の名を知るべきではないでしょうか。パウロや使徒達は御名のためならいのちを投げだし、死ぬ覚悟が出来ていると告白しています。それほどに御名が大切なのです。
 人間の場合でも名誉を守るために自殺する政治家や社長などがいます。名前を傷つけられることは体が傷つくことよりも苦しく、名誉を受けることは何よりも嬉しいことです。名前はその人自身をあらわし、その人の人格そのものだからです。神様も御自身の御名の栄誉の為に働かれ、御名を汚す者をゆるされません。神の神殿には御名をおかれました。私達も父の名=イエスを知り、心から父に栄光をかえしていきましょう。そのようにイエスの御名の為に働くとき、聖霊様も力強く働き助けてくださいます。

<力ある約束の名>
(いやす名)
ヤコブの手紙5:14
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
使徒の働き3:16
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
使徒の働き4:10
皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
使徒の働き4:30
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」

(罪を赦す名)
使徒の働き10:43
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

(悪霊を追い出す名)
マルコの福音書16:17
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
使徒の働き16:18
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

 私達がはっきりと唯一の神の名を知り、父の名を知り、その名によって祈る時、驚くべき神の応答があることを聖書ははっきりと約束しています。即ち罪が赦され、救われ、永遠の命が与えられます。又、悪霊を追い出し、病人は癒されると言うのです。私達はますますこの御名に栄光を帰し、御名を誉め讃えようではありませんか。

<おわりに>
私は幼い頃から信仰生活をしていましたが、祈る時「父よ」と祈ったり「イエス様」「主よ」と祈ったりしていました。習ったのはまず「父なる神様」で始めて最後に「イエス様の名によって」で終わるやり方でした。そして「聖霊様おはようございます」と言うベニーヒン先生の本を読んでからは「聖霊様」と語りかけもしました。そして何となく交互にお祈りしたりしてきました。イエス様とお祈りし続けたと思ったら、「ああ父も忘れてはならない」、「聖霊様とも交わらなくては」みたいな感じがありました。韓国の教会では今でもヨホヴァよと祈ったりします。しかし今回の内容を知ったときに、神様に対してよりクリアに理解する事が出来、ピントがあったようなか感じがしました。同時に祈りにも力が沸き、主の祈りをするごとにも恵を受けることが出来ました。
 かといって父よと祈ったり、主よと祈ったりすることを否定しているわけではありません。私もそのようにも祈ります。それにより神様がより祈りに答えてくれるとか、父よというのでは応答がないとか、そういうことを言いたいのではないことをご理解下さい。

 今回の内容に関して質問や疑問などがありましたら、出来る範囲で答えさせていただきますので、コメント欄にお願いします。個人的には全てのクリスチャンにとって、大切な事だと思っていますので、納得された方がいらっしゃいましたら是非周りの人にも分かち合っていただければと思います。相互リンクも歓迎いたします。コメント欄にお願いします。


(ヨハネの福音書17:11 〜さらに詳しく熟考される方へ〜) 
※この箇所は直接的な表現で書いてある大事な箇所ですので幾つかの訳を併記しました。慎重に書かれている内容を読みとってみて下さい。
(新改訳)
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
(口語訳)
わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
(NIV)
I will remain in the world no longer,but they are still in the world, and Iam coming toyou. Holy Father,protect them by the Power of your name -the name you gave me- so that may be one as we are one.
(KJV)
And now I am no more in the world, but these are in the world, and I come to thee. Holy Father, keep through thine own name those whom thou hast given me, that they may be one, as we are.
(改訳ハングル)
前半省略
聖なる父よ、私に下さった父の名で彼らを保存して我らのように彼らをも一つにして下さい。


<参照-その他の関連箇所>
エペソ人への手紙5:20
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

テモテへの手紙第一6:1
くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。
ヘブル人への手紙13:15
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
マタイの福音書1:21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
ヨハネの福音書14:14
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
ヨハネ10:30
「わたしと父とは一つです。」
ヨハネの福音書12:13
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
ヨハネの福音書16:24
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネの福音書12:28
父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

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