2012年01月27日

いのちの息

今日はNYのNyackという神学校の旧約概論からです。

 創世記一章と二章の比較という授業でしたが、今回は特に「いのちの息」に注目してみましょう。
特別に各国語、各バージョンの聖書を準備してみましたので、各自読み取れる範囲で違いを読み取ってみて下さい。

創世記Gen1:30
[개역개정] 창세기 1:30 또 땅의 모든 짐승과 하늘의 모든 새와 생명이 있어 땅에 기는 모든 것에게는 내가 모든 푸른 풀을 먹을 거리로 주노라 하시니 그대로 되니라
[NIV] 1:30 And to all the beasts of the earth and all the birds of the air and all the creatures that move on the ground -- everything that has the breath of life in it -- I give every green plant for food." And it was so.
[KJV] 1:30 And to every beast of the earth, and to every fowl of the air, and to every thing that creepeth upon the earth, wherein [there is] life, [I have given] every green herb for meat: and it was so.
[NASB] 1:30 and to every beast of the earth and to every bird of the sky and to every thing that moves on the earth which has life, [I have given] every green plant for food ";and it was so.
[(日)新改訳] 1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての高フ草を与える。」すると、そのようになった。
[(日)口語訳] 1:30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
[(日)新共同約] 1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
[(中)] 1:30 至於地上的走獸和空中的飛鳥,並各樣爬在地上有生命的物,我將草賜給他們作食物。事就這樣成了。
[(中)簡体] 1:30 至於地上的走兽和空中的飞鸟,並各样爬在地上有生命的物,我将青草赐给他们作食物。事就这样成了。

創世記Gen2:7
[개역개정] 창세기 2:7 여호와 하나님이 땅의 흙으로 사람을 지으시고 생기를 그 코에 불어넣으시니 사람이 생령이 되니라
[NIV] 2:7 the LORD God formed the man from the dust of the ground and breathed into his nostrils the breath of life, and the man became a living being.
[KJV] 2:7 And the LORD God formed man [of] the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.
[NASB] 창세기 2:7 Then the LORD God formed man of dust from the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living being.
[(日)新改訳] 2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
[(日)口語訳] 2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
[(日)新共同約]2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
[(中)번체] 2:7 耶和華神用地上的塵土造人,將生氣吹在他鼻孔裏,他就成了有靈的活人,名叫亞當。
[(中)簡体] 2:7 耶和华神用地上的尘土造人,将生气吹在他鼻孔裏,他就成了有灵的活人,名叫亚当。

いかがでしょうか?

一章では動物に関してで、二章は人に関しての言及です。

違いに気付かれましたか?

問題は日本語の新改訳聖書の訳と、英語のNIVです。
どちらもかなり広く使われているバージョンですが、一章と二章に言葉の使い分けがありません。

これでは、動物にも人にも同じ「命の息」「breath of life」があることになってしまいますね。

しかし他の聖書、たとえば日本語の口語訳や英語のKJVなどでは、一章は単に「命」「life」となっており二章のみが「命の息」「breath of life」となっていることに気付かれると思います。

どっちでもいいじゃんと言わないで下さい。

神が人の鼻に「命の息」を入れたのには大きな意味があるのです。

それに結果が伴うからです。
その結果とはなんでしょうか?

この 「命の息」入れたことで、呼吸をはじめた動物的、機能的、一般的な意味での生命となったのだとも理解できるのですが、、、

他の国の聖書に注目して下さい。
(KJV)... and man became a living soul.
사람이 생령이 되니라
他就成了有靈的活人

単に生き物となったのではなく、生きる霊(韓国語)となったとあります。
中国語バージョンの漢字を見ると少し分かりやすいでしょう。
英語では、"living soul"と表現されていますね。

日本語でも文語訳を見ると、同様に訳されています。
(今、手元に文語訳がないので引用できませんが、、)

どういうことかと言えば、神が鼻から命の生きを入れて下さったことにより、人は霊的存在となり、他の動物と知性だけでなく霊性においても区別された存在となったという事なのです。

そしてこのストーリはその後の堕落、キリストの人類救済へと繋がります。
創世記を、きちんと理解できないと、人の死の事に関しても、キリストの救いに関しても不明瞭になってしまうのです。

こういうことです。

創世記2:17
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

"その時、あなたは必ず死ぬ"と宣告されたアダムが、食べた後に何年生きたかご存知でしょうか?

創世記5:5アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

超長生きですね!!

何故でしょうか?神の言葉に効力がなかったのでしょうか?

つまり神に逆らったアダム及び私達に宣告された「死」というのは、霊的な死だったのです。

そして霊的に死んでいた私達に来てくださったのが、生かす御霊であり、最後のアダムであるイエスです。

コリント人への手紙第一15:22すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
コリント人への手紙第一15:45聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

ここで言っている、生きるだとか死だとか言っているのは、全て霊的な死、霊的な命のことです。

さらに言うなら、善悪の知識の木の実をとって死んでしまった私達は、エデンの園で示されている、もうひとつの木の実を食べて命を回復しなければならないのですが、、、、

エデンの園にあるもう1つの木を覚えていますか?

創世記2:9
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

いのちの木ですね!!

いのちの木があったのであれば、堕落したアダムとエバはすぐにそれを食べれば良かったのに、バッカだなー
というのが私の幼い頃の考えでしたが、、、

神がそれを禁じられたのは、少し後のことでしたので、、、、
さて
何故禁じられたかと言えば、、、それも見てみましょうか。

創世記3:24
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

何故禁じられたかと言えば、まだ時ではなかったからなのです。

【命なるキリスト】
そして時いたって来られた、命(ゾーエー)なる方、つまり命の木の本体なる方が我らがキリストイエスその方です。

彼は言われました、、、

ヨハネの福音書14:6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネの福音書10:10盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

彼こそが、命そのものなる方であり、命の木そのものなる方です。そしてこの方が、いのちを与える御霊を下さると約束して下さいました。

【命なる聖霊】
ヨハネの福音書6:63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
エゼキエル書47:9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。
ヨハネの福音書7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
ヨハネの福音書7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。


さてそれでは、冒頭の箇所と対比となる箇所を引用してまとめたいと思います。

人は神により「命の息」を入れられて、霊的に生きた存在となったのにもかかわらず、悪魔の誘惑に会い、神の命令に反して、善悪の知識の実を取って食べてしまったが故に、霊的に死んだ存在となってしまいました。
そんな私達にイエスは、創世記の時と同様に息を吹きかけて下さいました、、、、

ヨハネの福音書20:22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

最後のアダム、生かす御霊であるイエスが、命を与える聖霊を受けなさいと、再び息を吹きかけて下さったのです。
アーメン!!アーメン!!アーメン!!ではありませんか。

最後にいのちそのものである方から、いのちなる聖霊によって、いのちが豊かに私達に与えられる事を描いている黙示録を引用して、終えようと思います。願わくばこれを読まれた方が、霊的な神の命の大切さに気付きそれに満たされますように。
又神の罪の赦しと愛、イエスの十字架の贖い、聖霊の恵みと命とを、「サンキュー」と言って素直に受け入れられますように。

ヨハネの黙示録22:1、2 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
posted by じゅん at 16:23| Comment(0) | 聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月08日

聖霊のバプテスマ「信じたとき、聖霊を受けましたか。」

聖霊のバプテスマ「信じたとき、聖霊を受けましたか。」

「水のバプテスマを受け聖霊のバプテスマを受ける」
使徒の働き 2 38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

「水のバプテスマと聖霊のバプテスマは別」
「信じて水のバプテスマまで受けたのに、聖霊を受けていない例」
使徒の働き 8 15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
使徒の働き 8 16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

「水のバプテスマを受ける前に受けた聖霊の例」
使徒の働き 10 44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
使徒の働き 10 45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。
使徒の働き 10 47 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」

「信じていても聖霊を受けていない例」「異言、預言」
使徒の働き 19 2 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。
使徒の働き 19 6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

「イエス昇天後、イエスが遣わす聖霊」
ヨハネの福音書 7 39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
ヨハネの福音書 16 7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

「信じる=聖霊を受けた?」
コリント人への手紙第一 12 3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

※口先だけの告白でなく、心からのもの、殺されるとしても告白する信仰
※聖霊の内住と感化の違い

上記のいくつかの例から、信じても聖霊を受けない事もある事を確認しました。多くの教派では「信じる⇒聖霊を受けた」と教えます。“聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。”とあるからです。しかしこの聖句だけでそう主張するには根拠が弱いのです。

なぜならここでの告白というのは、殺されるとしても信仰を告白できるレベルを述べている可能性があるからです。ダニエルやパウロの信仰のレベルです。

もう1つは、“聖霊によって語る”=“内住の聖霊を受けた”とは言えないということです。旧約時代にも多くの人が聖霊によって語っています。

ペテロの手紙第二 1 21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

しかしイエスは“わたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。”(ヨハネの福音書16:7)と言われました。

イエスが天に昇る前にも多くの預言者が聖霊を受けているのであれば、何故イエスは“わたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。”などと言われたのでしょうか?

詩篇 51 11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

またダビデは“聖霊を、私から取り去らないでください。”と祈っています。

しかし聖霊は一度内住されたら去ることはありません。聖霊は保障だからです。保障の聖霊が去ることもあるとしたら、保障が保障でなくなってしまいます。
「聖霊は保障」
エペソ人への手紙 1 14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

つまり人々はただ単に聖霊の影響を受けることがありえるということです。その事と聖霊の内住を分けて考えなければなりません。

その上でこの質問に真摯に答えてみてください。
「信じたとき、聖霊を受けましたか。」

答えがNOや不明であるならば、だれにでも惜しみなく分け与えてくださる父に求め祈れば良いのです。

あの有名な聖句“求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。”は聖霊を求めよというコンテキスト(文脈)の中で語られたという事を知っている人は意外と少ないようです。

ルカの福音書 11 9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
ルカの福音書 11 10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
ルカの福音書 11 11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
ルカの福音書 11 12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
ルカの福音書 11 13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

そうです!!求めさえすれば、聖霊はイエスを信じる全ての人に与えられるのです。しかし残念なことは、「信じる=聖霊を受けた」という教義の故に、人々が聖霊様を切に求めない事なのです。
posted by じゅん at 10:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

異言

異言

聖書が教える異言(預言)について

「聖書によると聖霊を受けるときは、異言や預言が伴った」
使徒の働き 10 46 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。
使徒の働き 19 6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

「みなが異言をするわけではない」
コリント人への手紙第一 12 30
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

「パウロは誰よりも異言で祈った」
コリント人への手紙第一 14 18
私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、
コリント人への手紙第一 14 39
それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。

「知性の祈りと霊の祈りの両方が必要」
コリント人への手紙第一 14 14-15
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。

「パウロはみなが異言を話すことを望んでいる」
コリント人への手紙第一 14 5
私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。

「徳を高める」
コリント人への手紙第一 14 4
異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
コリント人への手紙第一 14 26
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。


「やみ、すたれることもある」
コリント人への手紙第一 13 8
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

「異言は人に対して話すのではない」
コリント人への手紙第一 14 2
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。

「異言は他の人の益にはならない」
初心の者がいる集まりでは制限する必要があり、知性の言葉を用いるべき

コリント人への手紙第一 14 6
ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。
コリント人への手紙第一 14 16
そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。
コリント人への手紙第一 14 23
ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。
コリント人への手紙第一 14 19
教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。

「異言と解き明かし」
コリント人への手紙第一 14 27
もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。
コリント人への手紙第一 14 13
こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

解説
異言は全ての人がするのではないとしても、パウロは全ての人が異言を語ることを望んでいると語っています。初心の者から見れば、気が狂っているようにも見える外面的な要素の故に、知恵を用いて使うべきですが、禁じてもいけないともあります。
そして異言の有用性についていえば、徳を高める、霊が実を結ぶとあります。そしてパウロ自身も誰よりも多く異言で祈ったとあります。
そして聖書はこうした霊的ギフトに関しては常に、求めよ熱心に求めよとあります。異言はもちろんの事、預言をもさらにすぐれた賜物をも求めよとあります。

コリント人への手紙第一 14 39
それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。

 現代の多くの教派では、異言や預言を奨励しない傾向にあります。私からはこれ以上は言えませんので、あとは各自が聖句を参照して下さい。
本サイトが多くのクリスチャンの方にとって理解を助けるものになれば幸いです。
posted by じゅん at 10:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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